「見えているものにトライする価値はない」 ヤマハからシリコンバレースタートアップへの転身

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米国スタートアップのMiseluで、ハードウェアエンジニアとして活躍している九頭龍雄一郎氏。ヤマハでの製品開発、新規事業開発などを経て、33歳のときにシリコンバレーにわたり、米国スタートアップでの挑戦の道を選んだ。日本の大手企業から米国のスタートアップへと大胆なキャリアチェンジを図った理由、シリコンバレーで獲得したもの、今後のビジョンなどについて聞いた。

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Miseluは新たな楽器の発明

――まずMiseluのサービスについて教えてもらえますか?
ワイヤレス音楽キーボード「C.24」という製品を開発しています。KickStarter*で注目を集め、MIDI over Bluetooth LEに対応する、世界初のワイヤレス音楽キーボードです。スリムで持ち運びやすく、iPadのケースにもなるユニークなデザインを採用しました。

(*米国で2008年に設立されたクラウドファンディングサービス。クラウドファンディングの先駆的サービスとして知られる。クラウドファンディングではプロジェクトを発表して、一般個人の協賛者を募り、資金を集めることができる)
 

――Miseluに入社して現在までを振り返ってどうでしょう。
マウンテンビューにて、初期メンバーの6人で立ち上げたときから、丸3年が経ちました。途中でいちど商品コンセプトとチーム構成を大きく変えたので、すでに2社のスタートアップを経験しているような感覚ですね。

日本の大企業からシリコンバレーのスタートアップという対角線のキャリアに行ったわけですから、最初はさまざまな面で戸惑いがありました。いまだに答えがわからないことがたくさんあります。でもそれが面白いですね。

私は、自分が日本人でシリコンバレーにいるからには、和洋折衷でやらなければ意味がないと思っています。全部アメリカのやり方で行うならば、現地の人を雇えばいいわけですから。自分の存在意義は、日本とアメリカのいいとこどりをすることだと思っています。

でも、こうやって3年を経て製品がリリースされて、おそらく半年も待たずに市場からの評価が出るでしょう。その時ようやくいままでがむしゃらにやってきた結果、その整理がつくんだと思っています。
 

未知の選択肢を選び続ける

――ひとつの製品のリリースまで3年というのは長いような気もしますが、いかがですか?
ヤマハ時代は多いときは半年に1製品ぐらいのペースで出していました。全く新しい製品をゼロから作るという意味では、3年は妥当かもしれません。

ひたすら苦しかったですけどね。「早く出してえなあ」とずっと思っていました。製品の見た目だけで言えば、1年前にはほとんど近しいものができていました。そこからはすごい細かいところの詰めの連続です。ハードウェアはこの作り込みの部分が非常に大変です。
 

――製品開発におけるこだわりについて聞かせてください。
製品をつくる上で、選択しなければならないときが幾度となく訪れます。たとえば、鍵盤には「押した」という感覚があることが大事です。その「押した」という感覚をいかにして生み出すか。例えばスイッチをつけるとか、バネを使うとかいろいろ選択肢があります。

私たちは、そういう選択肢にぶつかったときに、ことごとく既存のものの逆、つまり未知の選択肢を選び続けてきました。たとえば、鍵盤の感覚を残すために、スイッチという選択肢は捨て、「磁石」というおそらく世界初の仕掛けを作りました。わざわざ大掛かりな仕掛けを作りました。

未知の選択肢を選び続けたことで、確実に今までにない商品ができました。Miseluを見た人の中には、「新たな楽器の発明だったよね」という人もいます。私たちのチャレンジの結晶です。

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大企業でも異色のキャリア

――九頭龍さんはもともと学生の頃から、海外やスタートアップに関心があったんでしょうか?
全く考えてなかったですね。学生のときは、今のような状況は全く想像だにしませんでしたし、エンジニアになるというのも怪しいぐらいでした。大学3年生まではほとんど勉強せず、映画や小説など文化的なものに没頭していました。しかし、大学4年生のとき研究室の担当教官に刺激され、かなり私は変わったと思います。

学内でも一風変わった研究をしている研究室に私は入ったんですが、そこの教官が非常に聡明かつ厳しい方でした。その研究室の先輩方も、変人だけどとびきり優秀な人が集まっていました。

彼らに刺激され、持ち前の負けず嫌い根性がわき上がって、猛烈に勉強しようと思いました。本当の研究者はここまですごいのか、と衝撃を受けましたね。大学時代は3年生までさぼってしまったから残り3年ぐらい勉強しようと、大学4年生から修士まで、専門の音響をものすごく勉強しました。
 

――それで大学院を修了して、ヤマハに就職したんですね。
就活では、ヤマハやパイオニア、ビクター、ケンウッド、ソニーといったところの説明会にいきました。説明会にいくと、各企業が「視聴会」を開催して自社音響システムのすごさをアピールするんですが、そこで一番気に入った音を出したヤマハしか受けませんでした。音で決めました(笑)。
 

――かっこいいですね(笑)。ヤマハには希望の配属先に行くことができたんですか?
はい。エンジニアは「ハード屋」と「ソフト屋」にわかれますが、「両方できるようになりたいです」と言ったら、スタートアップ的な新規事業のチームに配属されました。予算もない、人もいないチームなので、みんなが全てをやらねばならず、2年目には商品企画やイベント企画などにも取り組ませてもらいました。

その後に異動になり、開発プロセスを一新するようなプロジェクトに携わりました。英語はめちゃくちゃ苦手で、TOEICも400点台だったのですが、インドの開発会社との共同開発を担当し、その後もシンガポールのスタートアップとの共同事業も担当しました。思えば私は大企業のなかでも普通のキャリアを歩まず、スタートアップ的な働き方をしてきたように思います。

そして30歳になるころには、無線モジュールの技術開発のチームでリーダーをまかされました。30歳そこそこで自分が決定権を持ち、エンジニアリングだけでなく、金勘定やタスクマネジメントなどを経験できたのは非常に大きかったです。

無線モジュールの部署は、技術開発でしたので、製品を作りたい自分としてはもの足りず、いろんなコネをつかって、裏で3つの製品を製作しました。私の名前こそ出ていませんが、その中から世に出たものもあります。もう時効ですね(笑)。

そしてそのときの企画の一つに、「アンドロイド鍵盤」というものがあり、これがきっかけで、Miselu代表の吉川と出会うことになったのです。
 

――「アンドロイド鍵盤」というのは確かに、今のMiseluにつながるものがありますね。
そうです。「アンドロイド鍵盤」は、社内で提案し、プロジェクト化が決定しました。しかし蓋を開けてみると、自分はプロジェクトの担当に入れなかったんです。そして結局半年くらいでそのプロジェクトは頓挫しました。もうかなりしょげてました。ヤマハに未来はねえ、くらいのことは口走っていたかもしれません(笑)。

そんなときに、同じような製品の構想を持っていたのが吉川でした。最初に吉川と会ったのが、ミーティングの場で、私も大勢の中のひとり、という感じでしたが、後で個人的に連絡をとり、渋谷で飲みに行くことになりました。2人で飲んで、その場でMiseluへのジョインを決断しました。私は、キャリアは自分で強引に捻じ曲げてつくっていくものではなく、人との出会いで自然に形づくられていくものだと考えています。吉川との出会いがまさにそうでした。
 

――すごい決断のスピードですね。
家に帰って、妻に「シリコンバレーのスタートアップで働く話があって、少し相談したいんだけど…」と言ったら、「どうせもう決めてるんでしょ」って言われました。これが九州の女です(笑)。本当に感謝しています。
 

――ヤマハを辞めることに迷いはなかったんでしょうか?
全くなかったです(笑)。
 

――どうして迷いなく決断できたんでしょう?
私は、死生観をけっこう大事にしています。

Miseluに飛び込む前に、古い友人が急性白血病にかかりました。本当に生きるか死ぬかの状況にまでなりましたが、2年かけて治療に成功し、仕事にも復帰することができました。

復帰後、それまでバリバリのキャリアウーマンだった彼女も、病気で2年ほど仕事から離れたために、完全に出世レースから脱落したと感じたようでした。しかし、彼女はいざ仕事から離れてみると、「いったい何にあんなに必死になっていたんだろう?」と思ったそうです。それからは考え方の軸が変わり、出世や目先の物事ではなく、その先にある世の中の未来やビジョンに軸足を置いて行動できるようになったと言います。

これは自分にも当てはまる話だと思います。どうやって生きてどうやって死ぬか、というのは非常に重要なテーマです。私は常に後悔しないように生きたいと思っています。だから、いくつかの選択肢が目の前にあらわれたときに、私は、未知のもの、答えを知らない方の選択肢をとりたいんです。

言うのがはばかられることでも平気で言ってしまうのが自分のいいところだと思っているので言いますが(笑)、ヤマハで部長、事業部長になる道のりは見えてしまった瞬間があったんです。45歳くらいには部長、50歳くらいに事業部長、そうしたらその後に取締役が見えてくるのかなあ、と思ったときに、一気につまらなくなりました。見えてしまっていることにトライする価値なんてないですから。そもそもそんなのトライじゃないですし。

だからヤマハを辞めたときに、まったく迷いはありませんでした。

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日本のエンジニアの大半は、シリコンバレーで通用する

――九頭龍さんの今後の展望はなんでしょうか?
私がMiseluに入ったのには目論見があって、スタートアップの成り立ちと運用を肌で学ばせてもらいたかったのです。それは自分が将来、CXO(CエックスO)つまり経営メンバーになるためです。いずれ自分で仲間を集めてやってみたいと考えています。
 

――こちらのスタートアップで、海外の方と共に製品を開発されてきたわけですが、日本のエンジニアの強みはなんでしょうか?
間違いなく、繊細さです。細かいことに気がつく、問題をなあなあで済ませないことに関しては飛び抜けてすごいでしょう。こっちのエンジニアは、問題が発生したあとしばらく経つとほぼ間違いなくそのことを忘れています。そして忘れていることをゴマかす、もしくはその話題を回避するためのものすごく高いスキルを持っています(笑)。そこはハッタリ大国アメリカですから。

あとこっちの人はディスカッション好きですよね。しかし、なんとなく結論が出てそれでおしまいになることが多いんです。いやいや、仮説は検証してなんぼでしょ(笑)。日本人は仮説を立てたら実験して検証しないと気が済まないと思います。

WhatsAppのCEOは、「われわれの強みは安定性です」と言っています。いかに安定したサービスを提供しているか、それしか言及しないそうです。つまり裏を返せば、そこが弱い人間がいかに多いことか。安定していることは強みです。日本人にはそれがあります。
 

――日本人はシリコンバレーをどう活用していけばいいでしょうか?
一方で、日本人はハッタリとか無責任発言ができません。何でもまじめに考え過ぎてしまいます。しかし、まじめに考え過ぎると、何が起こるかというと、足が重くなるんです。

これを改善する方法のひとつとして、シリコンバレーでやるのはひとつの回答かもしれません。日本だと社会的な背景もあるから、なかなか変えられない気がしますね。
 

――最後に日本のエンジニアにメッセージをお願いします。
日本のエンジニアの大半は、絶対にシリコンバレーで通用します。これは間違いありません。日本のエンジニアのクオリティは高い。エンジニアの実力分布をつくると、日本人にはぶっ飛んだ技術力を持っているひとは残念ながら極少数ですが、多くの人はシリコンバレーの平均より上に位置していると思います。だから思い切ってトライすれば良いと思います。

学生向けにメッセージを贈るとしたら、絶対に留学をお勧めします。自分は学生時代に留学いかなかったことを人生で一番後悔しています。30代で初めて海外に来るもんじゃないですね(笑)。

あと起業を志す学生は、いきなり会社を立ち上げるか、立ち上がったばかりのスタートアップを経験するのが良いと思います。Yコンビネーターの創始者である、ポール・グレアムが良いことを言っています。「スタートアップに行ったら、もしかしたら半年でつぶれるかもしれない。それが何だ。24歳の職なしになるだけだろう。その代わり一生使える、かけがえのない経験を得ることができる」と。

プロフィール:九頭龍 雄一郎(くずりゅう ゆういちろう)
1978年、東京都生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科修了(電気電子)。2003年にヤマハに入社。2011年にMiselu, Inc.にジョインし、シリコンバレーに生活拠点を移す。ハードウェアエンジニアとして、Miselu, Inc.にて商品開発を行う。

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